大阪ライオンズクラブ30周年記念誌より
30年を振り返って L色川幸太郎
30年前を振り返りますと、語り尽くせない思い出がたくさんございます。実は、この会場に入る前に、「ぼくにしゃべらせるんなら10分や20分じゃ済みませんぜ」と言ったら、村津大会委員長代行が、「それは困る、あんまり長くしゃべったらチーンと鳴らしますよ」と、こういうことですが、つとめて抑制をして、責めを果たしたいと思います。
今から10年前のことです。この中で何人、20周年記念の会合に出ていただきましたかわかりませんが、出られた方は憶えてられるでしょうか。あの時の行事のハイライトに、先程名前が出ました青木さんと進藤さんを、こういうふうに「立たしておくのは老人には気の毒」だから、壇上でイスに座らしてあげまして、創立当時のことをテープで、ナレーションで流しました。あの時の会場は、新大阪ホテルでございました。これはすでに取り払われて、新しいビルディングができておりますし、青木さんも、進藤さんもすでに亡き数に入っておられます。このお二人の壇上におけるお姿が、今私の眼前にほうふつとして現れてくるような気がいたすのであります。
31年前です。青木さんがいわば種をまかれました。ジョージ・バレネンゴア氏の話も出ましたけれども、あの人は、「特別代表」ということで日本に来たんですが、数年間の来日中、結局日本語をしゃべりませんでした。私などは言葉がはなはだ不自由ですので、ほとんど話したことがありません。ですから、この人の力ではないと思って居ります。バレネンゴア氏が青木さんを動かしたこともあるでしょうけれども、実際には青木さんがこの大阪の処女地にクワを入れられた最初の人であります。当時、青木さんは神戸ライオンズクラブのチャーターメンバーで、神戸ライオンズクラブも青木さんが走り回ってつくったもののように私は聞いております。ミレーの「種播く人」の絵を見ますと、種をまいて居りますのは非常に均らされた豊潤な、肥沃な土地ですけれども、当時の大阪は、ライオンズクラブにとってはまことに荒れた土地でありました。青木さんは、原始的なクワを一本持って、木の株や、石ころだらけの土地を均して、種をまかれたのであります。
今日の大阪を考えてみますと、もうすでに130ぐらいのクラブができております。したがって、東京と並んで一番大きな府県ではないかと思うんです。結果から見れば、非常な肥沃の土地でありますが、しかし当時は、本当に荒れ果てた所で、だいたい、「この広い大阪でライオンズクラブっていうのは一体何だ」というようなことで「西鉄ライオンズの応援団体じゃないか」というようなことを考えた人もあったくらいです。それを、実に勇敢に、体当たりの戦法で22名という人を「拉致」いたしまして、まさに「拉致」だと私は考えるんですが、そして結成式をやったのが30年前の4月であります。
私もその後に働きかけられて、チャーターメンバーになったわけですけれども、チャーターナイトの時は約50名近い人ができていました。青木さんの最大の功績は、実に進藤竹次郎というライオンを獲得したことにあるんじゃないかと思っております。進藤さんは、当時、東洋紡の副社長――後に会長になりましたけれども――であって、まさに「君子人」の名に値する人格識見の高い人として、大阪及び東京で認められておった人であります。その人を引っぱり込んで、結成式の時に無理やり会長を押しつけたということが、青木さんの成功したゆえんの一つでないかと思っております。
私は、進藤さんのことを語り出しますと、いくらでも尽きない思いでがあるんですけれども、どうも村津委員長代行から叱られますから、この辺でやめておきます。そう、一つだけこういうことを申し上げておきましょう。進藤さんは、その後すぐ第2代のガバナーになられました。第1代のガバナーは、神戸ライオンズクラブの岡部五峰さん。その次が進藤さんであります。一番最初は、或いはまだ体をなしていないライオンズクラブでありましたけれども、東京の石川欣一さん、この方が初代のガバナーであったかもしれません。そうすれば3代目になります。3代目は家を傾けるようになるのがあたりまえであるかもわかりませんが、この3代目のガバナーになった時の全日本のライオンズクラブは24しかありません。それが、1年間の終わりには約倍になっておったと思います。
もちろんこれは、進藤さんひとりの力じゃありません。ここで特に名前を挙げておきたいのは当時のデピュティガバナーの一人が原勝己さん、もう一人は福岡の貝島さん、それから東京の高橋貞次郎さん、この3人の方々です。私はちょうど地区の幹事をやっておったんですが、進藤さんにはできるだけ動かないで済むようにして、デピュティガバナーに動いていただきました。ことに原さんというのはものすごい方で、先程皆さんの前に立ち上がってお顔を見せました豊田治助さんが、大阪から勤務の関係で岡山に移られて、原さんを獲得され、原さんを動かして、獅子奮迅の努力をして中国、四国にたくさんのライオンズクラブをつくられたのであります。それから貝島さんもそうです。貝島さんの息のかかったというか、貝島さんがつくったのは100ぐらいあるかも知れません。恐らく全世界のライオンズクラブのメンバーの中で、貝島さんほどライオンズクラブの誕生に力を尽くした人はないんじゃないかと思います。これはずっと後のことまで入れての話です。とにかくこの3人のデピュティガバナーの御援助があって、翌々年でしたが、進藤さんは第2代目の国際理事になりました。進藤さんという人は―どうも話が長くなってしまっていけませんが―私は「温良恭倹譲」という『論語』のことばを奉ったことがあります。そういう方であります。が、背骨の一本通った人で、ライオンズクラブに、もし適当でない行動があった時は、憤然として、色をなし、憤慨されたこともあります。私はこれを“進藤イズム”というふうにいっておるんですが、“進藤イズム”が健全であった時は、日本のライオンズクラブは健全な発達をしてきました。進路において少しも間違いない動きをしてきました。進藤イズムの影が薄くなった時は、ライオンズクラブはいささか警戒を要するようなことになりはしないかという気がいたしております。
今、果たして進藤イズムがまだ滲透しておりますかどうですか、これは皆さんの御判断に任せますけれども、我々としては、このたぐいまれな先輩の跡を慕い、その跡を歩いて、日本のライオンズクラブの健全な発達を期したいと考えるのであります。たいへん蕪辞でありますが、またえらく長くなって、十何分を要し、申し訳ありませんでしたが、これをもって私のあいさつといたします。御静聴ありがとうございました。(拍手)



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